「旅」のことのはぐさ

タイトルの「ことのはぐさ(言の葉ぐさ)」とは話題のことです。旅の話題を幅広く掲載したいと思っています♪

ラオスに実際行ってみて(ラオス ルアンパバーン旅行記 ふりかえり)

後発開発途上国をこの目でみて見たい。ラオスへの旅行を決めたのは、あまり褒められたものではない、好奇心がきっかけでした。

東アジア域で後発開発途上国となっているのは、ラオス・ミャンマー・カンボジア・東ティモール。

東ティモールは、治安に不安があり、飛行機の値段も高いので除外。

カンボジアは、アンコールワットがあり、観光地としてメジャーだったので、また行くこともあるだろうと除外。

最後に残った候補が、ラオスとミャンマーでしたが、世界じゅうから観光客が訪れるルアンパバーンに惹かれたこと、ミャンマーがビザを事前に用意する手間がかかることがあったため。ラオスへ行くことに決めました。

ラオスは日本人の場合は、短期観光の場合、ビザがいらないんですよ。今や、ラオスは広く門を開かれた国となっています。

社会主義国ということで、緊張していきましたが、イミグレーションの職員が軍服らしい服を着ていたこと以外は、高圧的な印象を受けることはありませんでした。(唯一のイミグレーションの職員も服が怖かっただけで、対応は他の国と特に変わりませんでした。)

経済的に脆弱といいますが、首都ビエンチャンもルアンパバーンも市場にはモノが溢れており、極端な貧しさというのを感じることはありません。

停電があったり、道路がボコボコだったり、生活道路に至っては、舗装どころか砂利道ですらない、土道で雨でひどく削れていたり、日本では当たり前になっているインフラが整っていません。

↓砂利すら敷かれていない、ルアンパバーン近郊の農村の道路

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↓ルアンパバーンの市街地外れにあった木製橋

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バスに乗っていると穴ボコだらけの道路だとぐらんぐらん揺れますし、峠を越えるうねうねした道をヘッドランプだけを頼りに運転していく(深夜になると、街頭も家の灯りも全くないんです。)のは当然ノロノロとした運転になりますし、時には崖から転落するような大事故も起きていると聞きます。

特にビエンチャンからルアンパバーンへの移動については、たいした距離でもないのに1日かかってしまうというのは、インフラの貧弱さの影響と言っていいでしょう。

エスカレーターとエレベーターについては国内にほとんどなく、街1番のショッピングセンターであるタラートサオでも4時には閉まってしまうのは、面食らいました。

市民向けの市場については、ほとんど泥のような場所の上に、バラックのような建物を建て売り買いをしています。

また、値札というモノがほとんど存在せず、言葉の不自由な外国人観客にはハードルが高いところ。

工場でつくる商品については、簡素で粗末なものが多い一方で、手間がかかっているであろう美しい伝統工芸品もお土産として販売されていました。

伝統文化については、一定の敬意をはらった生活をしている様子が伺え、女性は伝統衣装である腰スカートを履いている人がほとんどでした。(上半身の服装は、普通の洋服だったりするので完全な伝統医療というよりも折衷式ですね。)

↓ルアンパバーンの托鉢の様子

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仏教については、日本よりもはるかに敬われている様子で、町一番の建物はお寺というのがほぼ決まりでした。道も舗装されていない、小さな町でも立派なお寺が必ずありました。

穏やかで親切な人が多く、ぼったくりなどに会うことはなかったです。ただし、観光客向けの商売は実入りがいいため、一発当ててやろうみたいな山師的な人が多く集まっているため、外国人向けのトゥクトゥクの運転手は、素性がよくなさそうなのも事実です。でもその人達ですら、他の国の詐欺師などと比べたら、かわいいもので、ちょっと値段をふっかけられるぐらいです。

行ってみて思ったのは、人々の営みに、劇的な差があるわけではないなと言うことです。仕事をしてお金をもらうということを、ラオスの都市の人達は当たり前にのようにしていました。一つの仕事に多くの人手を割いたり、子供達が仕事の手伝いをしていたりと日本との違いも感じられます。

一方で仕事と生活のバランスもとっており、経済的には貧しいのかもしれませんが、それが生活上の不幸につながっているわけではなさそうでした。

ラオスの人々は国が開かれるまで、自分達が貧しいとは思っていなかったと言われています。

今はだんだんと観光業を中心に、たくさん儲けようと言う気持ちが芽生えつつあるのを感じます。中国資本らしい、巨大なホテルやショッピングセンターも建設されはじめ、ラオスも経済成長しつつあります。

人を羨む気持ちが、静かで穏やかな生活を、少しづつ変えつつあるのが今のラオスでしょう。

行ってみて良かったと、心から思える国でした。ただ、私が見たのは、首都ビエンチャンと世界遺産で潤う観光の町ルアンパバーンだけ、もっと長い時間をとって小さな町にも行ってみたいと思う気持ちがあります。そこには、また別の顔を見せてくれるのかもしれません。

【和歌山】古代和歌浦の小島で、現在も唯一、島として残る、妹背山へ。

古代、和歌浦は海辺にぽつりぽつりと小さな島が浮かんでいる風景と天然の砂州がおりなす美しさが、熊野詣での道すがら、訪れた都の人々を魅了したと言われています。

砂がたまったり、埋め立てがされたことで、ほとんどの島はいまでは陸地となってしまいました。

しかし、妹背山だけは、陸に近くなってしまったとはいえ、今でも海に浮かぶ小島として残っています。

石造りが見事な三段橋 

江戸時代より続く、三断橋という青石で造られた橋が島と陸地をつないでいます。石造りの美しい橋ですね。

紀州藩の石造り建築物の技術力には驚かされます。

遠く、中国杭州の西湖の六橋をモデルとして建設されたと伝えられています。

下の写真が杭州の六橋です。左に見える長い緑色の陸橋が六橋です。2キロ以上あり、歩くとヘトヘトになりました。(遊園地の中を走るような小さなバスが、陸橋を走っているほどです。)巨大な長さで比べ物になりません(笑)

ただし石積みの丁寧さは、本場に劣らない見事なものです。

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紀三井寺を眺めるために作られた海上楼閣

妹背山の橋と反対側にあるのが、観海閣。もともとは、紀州徳川家の初代藩主「徳川頼宣」が1600年代に木造の水上楼閣として建設しましたが、場所がら台風で何度も損壊し、そのたびに再建されてきました。

現在のものは、昭和36年第二室戸台風で損壊したものを、コンクリート造りで立て直したものです。楼閣からは、片男波砂州を一望することができます。

海観閣のすぐ前にある、亀石。亀の格好に見えますかね?

潮の満ち引きでかなり印象が変わって見える島です。ゴミが流れ着いてしまっているのが、残念です。

妹背山を境内とした海禅院

観海閣のすぐ裏手に山を登った中腹にたつ多宝塔。江戸時代にの妹背山には紀州徳川家によって建てられた海禅院というお寺がありました。

しかし、廃藩置県で明治政府へと政権が移り変わると、保護するものいなくなり、荒廃して多宝塔以外は失われてしまいました。(妹背山護持顕彰会が寄付金を集めて、経王堂という小さなお堂が、平成にはいってから、再建されています。)


江戸時代からそのままの形で残る多宝塔。多宝塔も小さいながら、長い歴史を残ってきた風格を持っています。また、土台や柵などの石造り建築も見事です。

あしべ屋別荘 

大正11年には当時の皇太子(後の昭和天皇)も宿泊するなど、和歌浦でもっとも格の高い旅館として営業してきた「あしべ屋」です。しかし、大正14年に経営不振から、あしべ屋は廃業してしまいます。以降、本店は望海楼の別館となり、妹背山の別館は別の個人に譲られました。その後、本館は望海楼ともども、廃業(新和歌浦への移転が契機とも)とともに、取り壊されてしまいますが、別館は現在に至るまで、建物が残されることになりました。

今でも手入れが行き届いている美しい建物です。塩害も強い、離れ小島に建物を保存していくことの努力は相当なものでしょう。

 一時は住居として利用されていたそうですが、建物の保存に理解のある方が住んでいたそうで、旅館として利用されていたことは建物のつくりで容易に判別できます。

文化財として指定されたことを契機に、住居としての利用をやめ、今では、貸会議室のような利用をされているようです。

こんなところで手の届いたもてなしを受けながら、宿泊したらどんなに気持ちが良かったことでしょう。多くの賓客たちに愛されたのもうなずけます。

関連情報

 すぐ隣にある鹽竈神社の記事です。旅館「あしべ屋」の本館跡についても。

hino0526.hatenablog.com

 こちらもすぐそばにある玉津島神社と奠供山に関する記事です。文中に出てきた望海楼がエレベーターの経営もとです。

hino0526.hatenablog.com

 

 

【和歌山】洞穴を御神体とする、和歌浦の塩竈神社

塩竈神社というとと、宮城県塩釜市塩竈神社が有名ですが、和歌山市和歌浦にもささやかな大きさながら、市民に愛される神社とて同名の神社があります。

和歌浦の小さな山の岩の崖にへばりつくように小さな社殿が外から見え、社殿のあたりだけ崖が凹んでるのが、見て取れます。

洞窟という物珍しさもあり、以前より目の前を通るたびに気にはなっていました。

現在では社殿が建てられていますが、明治時代までは無社殿の神社だったと思われ、古い古写真を見てみると、立派な鳥居はありますが、奥に社殿の姿は見て撮ることができません。

和歌山県立博物館所蔵「新和歌浦 名所絵はがき」より おそらく明治時代のもの。「米榮別荘」というのは、旅館の名前で、和歌浦では「あしべ屋」と並んで長い歴史を持つ旅館でした。

 

木製の柵や白い紙らしきものが、ちらりと見えますので、現在の「花の窟神社」のような形式だったと思われます。

現在でも無社殿の「花の窟」神社。熊野地方には、現在でも無社殿神社が残されています。

明治以降の国家神道として神社が整備されていく際に、自然信仰そのままの無社殿状態から、現在のような社殿を持つ神社に整備されました。(明治以前は、自然信仰そのままの全国に無社殿神社が数多くあったと言われています。しかし、近代国家として日本が生まれ変わるには相応しくないとされ、急速に数を減らし、現在では熊野地方にかろうじて残っている状況となっています。)

いざ、鹽竈神社の中へ

実際に中に入ってみると、外から見えた金属の建物は、落石などから保護するためのシェルターで、その下に本当の社殿があります。明治以降の社殿とはいえ、100年近い歴史があるので、風格が出てきています。

社殿内部に入るとくの字型に曲がっており、奥に崖があります。社殿の部分だけ細く崖が凹んでおり、通路のような社殿になっています。木に囲われているので、すぐに崖にへばりついているのかと思いましたが、それなりに奥行きがあります。

ご神体の洞窟は、それほど深さはなさそうですが、独特な雰囲気を持っています。自然信仰の対象となったというのは、もっともだなと感じされられます。

塩づくりの神様

祀られているのは、「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」安産と子授けの神さまとして有名ですが、古くは塩づくりの神さまとして祀られてきました。和歌川を挟んで、和歌浦の向かいに当たる、現在の和歌山県立大学病院付近は、紀州藩の塩田が広がっていましたので、塩田関係者から信仰を集めていたことでしょう。

塩田はその後、明治42年紀三井寺競馬場として競馬場になります。(近畿では、に番目に古い競馬場でした。和歌浦にとって貴重な観光資源となったことでしょう。)

その競馬場も昭和末期に閉鎖され、跡地が県立大学病院となっています。今でも病院の敷地がゆるやかなカーブを描いて楕円のようになっている場所があるのは、競馬場時代の名残です。

 

ここが参拝できるいちばん奥になります。木の枠の後ろにも洞窟が少し広がっています。

静かな雰囲気で、洞窟のひんやりとした空気が気持ちの良い場所です。自然の持つ、不思議なパワーをじっくりと味わうことができました。

小さい神社ですので10分もあればお参りできるでしょう。

料理旅館「あしべ屋」跡

神社のすぐ右手には、「あしべ屋」という旅館がありました。江戸時代には茶店としてつくられ、明治時代には和歌浦でもっとも格式の高い旅館として繁栄したと言われています。

夏目漱石ももともとは、「あしべ屋」に泊まるつもりでいたようですが、同行者の菊池総長という方が宿泊していたので、日本初の展望エレベーターのあった「望海楼」へ予定を変えて宿泊したと日記に書かれています。

案内の看板には、和歌山のほこる有名人「南方熊楠」と中国革命の父孫文」が明治34年に宿泊したと書かれています。

現在は、ただ草むした空き地が広がるだけで、柱の跡や、石につけられた階段の跡だけが当時をしのぶことができる状態となっています。

(続く)

次は、「あしべ屋」跡の向かいにある妹背山へ渡ってみます。こちらには、今でも「あしべ屋」の別邸が残っています。

関連情報

 元祖パワースポットとも言える無社殿神社として、現在もそのままの形で残る、花の窟神社。

 和歌浦新和歌浦の記事