【和歌山】観光開発の夢の跡、新和歌浦の遊歩道
古くは、万葉集の時代から、和歌にその美しさを歌われ、和歌山の名の元になりました。
明治時代になると、鉄道の開通により多くの人々が気軽に訪れることができるようになり、人気が高まります。当時の和歌浦は、日本初の展望エレベーターを導入する先駆的な観光地でした。
(展望エレベータの様子は、夏目漱石の小説「行人」に描かれています。家族で和歌浦への観光をするシーンがあるので、明治時代の旅行の様子をうかがい知ることができます。和歌山に行く特急で食堂車の様子も書かれています。和歌山と大阪の移動も現在よりも特別な旅行だった様子が伝わってきます。)
その後、和歌浦では、水族館を併設した遊園地の開発計画なども立ち上がり、自然景観だけではなく、開発を行うことで、観光客を呼びこもうとする気運が高まります。
しかし、景観保全を重視する開発反対派と開発賛成派の係争が激化し、明治後期には大規模な開発ができなくなっていきます。
夢破れた、開発賛成派の人々が、次に目をつけたのが、和歌浦に隣接していましたが、道路がなかったために、ほとんど観光客が訪れることがなかった、新和歌浦です。山を削り、トンネルを通して、大旅館や遊園地を建設し、一大観光スポットとして開発されました。
最初の開発は、関東大震災で旅行の自粛ムードが広がったことや不況の影響で頓挫し、開発会社は精算の憂き目にあいますが、その後は盛り返し昭和初期には旅館が立ち並びます。戦争直後もGHQ向けの施設として賑わい、その後も大規模な開発が続けられます。
しかし、旅行の多様化や観光客が温泉のある白浜等の観光地にシフトしたことで、昭和後期より旅客は減少していきます。
さらに天然の砂洲だった、片男波が侵食により人工海岸にせざるおえなくなったことで、観光地としての魅力が半減し、新和歌浦だけでなく和歌浦地区全体が、観光地として衰退していきます。
旅客の減少により、遊園地やロープウエイは維持できなくなり、資本投下によって開発された観光スポットは軒並み閉鎖され、再び天然の景観に頼るしかない状態になりますが、肝心の天然の景観は、長年の観光開発の結果で、損なわれてしまっており、新和歌浦はたいへん厳しい状況にあります。一方で明治以降の観光開発の痕跡はいたる所に残っているので好き者にとっては、興味深い土地でもあります。
私的な感想では、和歌浦は開発の手が入っていないため、鄙びてはいるものの、古き良き時代を感じることができる地域です。核となる観光スポットがなく、営業している旅館も無くなりましたが、古き万葉の和歌の石碑を探索しながら、旧跡を見ていくのは、楽しいものです。
一方で新和歌浦は開発の手が入りすぎており、美しい景色を楽しむのは、今日では難しくなっています。旅館が多いのでここに宿泊をして和歌浦散策を楽しむ、明治から昭和の観光地の繁栄の跡を散策するというのも、楽しみ方の一つではないでしょうか。
新和歌浦の玄関口、洒落た高架道路
全盛期はさぞさ洒落た道路だったろうと思える、お寺のような凝ったデザインの擬宝珠の欄干と同じく凝ったデザインの外灯が続く、高架道路が新和歌浦に私たちを出迎えてくれます。この高架道路も歩道が壊れかかっており、一部階段が立ち入り禁止になっています。
高架道路の下は埋め立てられて、駐車場と観光客向けの魚市場になっています。魚市場は、たいへんキレイに整備されていますが、値段が高めで、あまり魅力的な観光地にはなっていないようです。白浜の「とれとれ市場」が遠く京阪神地区全体からの旅客を集めているのと比べると、さびしい限りです。
魚市場の裏あたりから、海岸を観光遊歩道が整備されています。しかし、肝心の入口の部分下の写真のように閉鎖されています。高架の遊歩道が整備されていたと思われる、コンクリートの小さな橋脚が残存しているのですが、深刻な老朽化でそばに寄れなくなっています。その柵の上にも廃道らしきものが見え、最盛期にはこの崖にはいくつもの道路が通っていたのか訳のわからないことになっています。
(今は、閉鎖の簡易柵ですら壊れており、燦々たる状態ですが)
今の風景からはなかなか信じられませんが、昭和30年代にはこの場所に「新和歌浦水族館」という水族館があり、マンボウなどを展示していたようです。相当短い期間で閉鎖されてしまったようで、あまり情報がない、幻のような水族館です。
山の裏側です。長年の観光開発の結果、ひどいことになっています。何かが建っていた跡らしきものや、道路が何本もあったみたいですが、かつてはどのような状況だったのか、今の現地からは窺い知ることができません。
下は昭和30年代の絵葉書です。当時はこんなにも鮮やかだったんですね。中央には水族館の現役当時の姿が。今は、コンクリートが虚しく残るだけですが、上にも旅館が立っていたんですね。
埋め立てがされておらず、高架道路の下まで海が迫っており、岬には美しい岩があります。
おそらく、あの美しい岩の成れの果てです。護岸工事がすすみ、堤防に挟まれてしまっています。てっぺんだけに植物が生えているその姿だけが、かろうじて同じです。
小さな岬を越えると、旅館街になっています。第一隧道と第二隧道の間にあたります。古くは明治から開発がされた、新和歌浦の旅館街の中心部だったようですが、半分ぐらいの旅館は閉鎖されてしまっており、さびしい状態です。目の前の柵に囲まれているひときわ目立つ建物も、改装ではなく、解体している様子です。
2022年現在、この場所はとってもおしゃれなホテルに再開発されました。この辺りのエリアは活気を取り戻しつつあります。
海岸があるので、夏の時期は、ホテルがそのまま海の家になるみたいです。(撮影したのは冬の時期です。)これは便利で快適そうです。
延々と海岸にそって遊歩道が整備されていますが、誰もすれ違う人はいません。時折、釣りをしている人がいるぐらいで、観光客にはあまり来ていないようです。
ここには天然の岩場が少し残っていますね。かつては、すべてがこのように、岩場と砂浜で美しい風景だったのでしょう。
上には巨大なホテル「萬波」があります。ペンキを新しく塗っており、内部も改装しており、新和歌浦の中では、今でも元気に営業してるホテルです。口コミの評判も良いです。
もともとは、南海電鉄の子会社でしたが、現在では地元資本に譲渡されています。
建物の下部の岬の突端に、レンガづくりの建物が残っています。海岸に沿っているので、現地では軍事施設か何かかと思いましたが、明治〜大正時代に建てられた水族館の跡です。
仙集館という旅館に併設されており、建設は進められたものの完成し、営業に至ったのかどうかは、今ではよくわからなくなっています。営業したとしても間もなく開発会社の資金繰りが行き詰まっているため、相当短い期間の営業に終わっているでしょう。この水族館跡については、また別の機会に詳しく書きたいと思います。
遊歩道が整備された際に窓を塞いでしまったらしいです。レンガ造りは美しいのですが、窓が雑にコンクリートで塞がれています。ちょっと残念ですね。
同じくレンガ造りですが、こちらは昭和60年代に旅館組合建てられたらしいです。「夢の鐘」鳴らすと夢がかなうらしいです。夢を願うにはちょっと寂しい場所ですね、、
煉瓦造りの水族館跡を振り返った写真です。崖は綺麗といえば、綺麗なのですが、なぜかうら寂しさを感じさせます。
ボロボロの廃墟もありました。下のコンクリートの土台は新しそうなので、廃墟を壊して何かを建設しようとして、やめてしまったのでしょうか。
歩いて行くと、漁村に到着します。新和歌浦の観光地は、ここで終わりですね。
ここからは、古くからの漁村にはいります。狭い崖にたくさんの建物が建っています。
この先も歩道は続いており、雑賀崎まで行くとホテルや観光スポットが色々とありますが、今回はこのあたりで終わりにします。
(終わり)
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