【三重・伊勢】伊勢参りによって栄えたお寺 朝熊山金剛證寺
伊勢神宮とともに栄えた朝熊山
江戸時代に大流行した伊勢参りは、伊勢神宮だけでなく、周辺の寺社仏閣や名所をあわせて訪問するのが一般的でした。
一生に1度きりとなるかもしれない大旅行、今の新婚旅行よりも重要なイベントだったことでしょう。
せっかくの機会ですから、懐具合の許す限りたくさんの場所を訪れていました。人によっては、大阪や京都にまで立ち寄っていたようです。宗教行事に名を借りながらも、現在の観光旅行に似た部分を持つのが江戸時代の伊勢参り。昔の人たちの人間らしさを感じさせてくれます。
その中でもとりわけ、お伊勢参りのときに寄っていかなければならない、必見スポットとして有名だったのが伊勢市にある、金剛證寺(こんごうしょうじ)でした。
開山は古く正確なところはわからなくなってしまっていますが、空海(弘法大師)が平安時代に真言宗の寺院として整備したと伝えられています。
室町時代になると伊勢神宮の鬼門を守る寺として、伊勢神宮との関係が深まっていき、繁栄していきます。
江戸時代になると「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と言われ、伊勢参りの折には朝熊にも参拝するのが一般的となりました。神仏が一緒に敬われていたおおらかな時代を反映しています。
大正14年にはケーブルカーが開通し、気軽に訪問できるようになると、参拝者はさらに増加します。しかし、戦時中の昭和19年に金属供出のためケーブルカーが廃止されると、参拝客は激減し衰退します。一時は関係者以外の入山が禁止されるほどですが、戦後になると登山バスが開通します。それでもケーブルカーがあった往時の賑わいを取り戻すには至らず苦しい時代が続きます。
転機になったのが、昭和39年の有料道路「伊勢志摩スカイライン」が開通です。再び気軽に訪れることができるようになり、開通当初はたいへん賑わったそうです。
しかし、現在では1220円もの通行料金をとるスカイラインを通らないと参拝ができないこともあり、今では再び静かな環境にもどっています。
伊勢志摩スカイライン
三重交通の子会社「三重県観光開発」によって開発された、観光用のドライブコース。伊勢志摩の多島海の美しい景観を楽しむことができます。普通車は1,220円ですが、伊勢神宮の駐車場の領収書を見せると1,000円に割引されます。(志摩市のふるさと納税のお礼にもらえる金券も利用可能です。)
展望台からの景色は絶景で、高い料金ですが見合うだけの価値はあります。
まずは本堂へ
お寺の入口に100台以上駐車できそうな広い無料駐車場が整備されていますが、停車している車は10台に満たないほど。ちょっと寂しい状況ですね。
山門をくぐると庭園が整備されています。苔むしており、静か。
池にかかる急な丸い橋が特徴的ですね。渡るのは禁止されていますので、眺めるだけ。かつては渡ることが可能だったようですが、急傾斜過ぎて渡るのに骨が折れそう(笑)。ちょっとしたアスレチックです。
昔の人はどうやって渡っていたのでしょうか?
階段の手すりにお布施をした方の名前が彫られています。その中に、鳥羽の誇る真珠王「御木本幸吉」の名が残されていました。金300円。地元に貢献してますね。(御木本幸吉は、真珠で有名なミキモトの祖業者。真珠養殖の成功で財をなした鳥羽のヒーローです。)
奈良の薬師寺の仏足をもとに作ったと言われる仏足石。さらりと置いてありますが、1833年と今から200年近く前に作られたものです。
本堂の横には牛の像がありました。牛の頭には、小さな大黒様がのっています。ユーモラスで面白い。みんなに撫でられたせいで牛の顔がピカピカになっています。
階段を上がると本堂へ。メインは本堂ですが、ここだけで帰ってしまってはもったいない。本堂から奥の院にむかう右手の道を歩みます。
おごそかな雰囲気ただよう奥の院への参道
巨大な卒塔婆が延々と安置されており、厳かな雰囲気の参道が続きます。お墓がなく、卒塔婆だけがずっと続いているのは、不思議な雰囲気。最初はちょっと恐ろしかったですが、なにか神聖な空気を感じさせられます。
ところどころに遺品が置いてあったりして、卒塔婆一つ一つが死者を祀っていることを感じさせてくれます。山の中を湿度の高い靄の中、卒塔婆が立ち並ぶ中歩いていくのは、まるであの世にでも向かうかのような幻想的な雰囲気。
本当は写真があればいいのですが、他人のお墓を写すみたいで気が引けたので、ありません。ぜひ、行ってみて体感していただきたい風景です。
数百メートルの参道の間、ずっと卒塔婆が安置されています。そこを抜けると奥の院に到着。小さな茶店とお堂があります。
地蔵菩薩が祭られており、境内にはたくさんのお地蔵さんもありました。水子地蔵でしょうか、一つ一つがなくなった子を祀っていると思うと、やはり不思議と重い空気を感じます。
行ってみて
朝熊山の最大の見どころは、卒塔婆が延々と並ぶ奥の院への参道でした。私は時間がなくて訪れることができませんでしたが、少し歩けばケーブルカーの跡も見ることができるみたいです。
有料道路の中というのがネックですが、拝観料などはとられないので、多くの人数でいけばむしろ普通のお寺にいくよりも経済的かと思います。
展望台から海を眺めた景色も最高ですので、有料道路の料金の高さに負けず、ぜひ訪問してみてください。
次はどこへ行こう
鳥羽城&旧鳥羽小学校
有料道路の終点付近にあります。鳥羽城は、珍しい「海城」という海に浮かぶ城でした。船を直接つけることができる構造になっていたと伝えられています。現在は、埋め立てがすすんでしまったので往時の景色を振り返るのは難しいですが、門などが再建され観光スポットとしての整備が少しずつすすめらています。
また、城内には戦前に建てらてた、旧鳥羽小学校の建物が保存されています。アールデコの趣ぶかい建物です。
ラオスに実際行ってみて(ラオス ルアンパバーン旅行記 ふりかえり)
後発開発途上国をこの目でみて見たい。ラオスへの旅行を決めたのは、あまり褒められたものではない、好奇心がきっかけでした。
東アジア域で後発開発途上国となっているのは、ラオス・ミャンマー・カンボジア・東ティモール。
東ティモールは、治安に不安があり、飛行機の値段も高いので除外。
カンボジアは、アンコールワットがあり、観光地としてメジャーだったので、また行くこともあるだろうと除外。
最後に残った候補が、ラオスとミャンマーでしたが、世界じゅうから観光客が訪れるルアンパバーンに惹かれたこと、ミャンマーがビザを事前に用意する手間がかかることがあったため。ラオスへ行くことに決めました。
ラオスは日本人の場合は、短期観光の場合、ビザがいらないんですよ。今や、ラオスは広く門を開かれた国となっています。
社会主義国ということで、緊張していきましたが、イミグレーションの職員が軍服らしい服を着ていたこと以外は、高圧的な印象を受けることはありませんでした。(唯一のイミグレーションの職員も服が怖かっただけで、対応は他の国と特に変わりませんでした。)
経済的に脆弱といいますが、首都ビエンチャンもルアンパバーンも市場にはモノが溢れており、極端な貧しさというのを感じることはありません。
停電があったり、道路がボコボコだったり、生活道路に至っては、舗装どころか砂利道ですらない、土道で雨でひどく削れていたり、日本では当たり前になっているインフラが整っていません。
↓砂利すら敷かれていない、ルアンパバーン近郊の農村の道路
↓ルアンパバーンの市街地外れにあった木製橋
バスに乗っていると穴ボコだらけの道路だとぐらんぐらん揺れますし、峠を越えるうねうねした道をヘッドランプだけを頼りに運転していく(深夜になると、街頭も家の灯りも全くないんです。)のは当然ノロノロとした運転になりますし、時には崖から転落するような大事故も起きていると聞きます。
特にビエンチャンからルアンパバーンへの移動については、たいした距離でもないのに1日かかってしまうというのは、インフラの貧弱さの影響と言っていいでしょう。
エスカレーターとエレベーターについては国内にほとんどなく、街1番のショッピングセンターであるタラートサオでも4時には閉まってしまうのは、面食らいました。
市民向けの市場については、ほとんど泥のような場所の上に、バラックのような建物を建て売り買いをしています。
また、値札というモノがほとんど存在せず、言葉の不自由な外国人観客にはハードルが高いところ。
工場でつくる商品については、簡素で粗末なものが多い一方で、手間がかかっているであろう美しい伝統工芸品もお土産として販売されていました。
伝統文化については、一定の敬意をはらった生活をしている様子が伺え、女性は伝統衣装である腰スカートを履いている人がほとんどでした。(上半身の服装は、普通の洋服だったりするので完全な伝統医療というよりも折衷式ですね。)
↓ルアンパバーンの托鉢の様子
仏教については、日本よりもはるかに敬われている様子で、町一番の建物はお寺というのがほぼ決まりでした。道も舗装されていない、小さな町でも立派なお寺が必ずありました。
穏やかで親切な人が多く、ぼったくりなどに会うことはなかったです。ただし、観光客向けの商売は実入りがいいため、一発当ててやろうみたいな山師的な人が多く集まっているため、外国人向けのトゥクトゥクの運転手は、素性がよくなさそうなのも事実です。でもその人達ですら、他の国の詐欺師などと比べたら、かわいいもので、ちょっと値段をふっかけられるぐらいです。
行ってみて思ったのは、人々の営みに、劇的な差があるわけではないなと言うことです。仕事をしてお金をもらうということを、ラオスの都市の人達は当たり前にのようにしていました。一つの仕事に多くの人手を割いたり、子供達が仕事の手伝いをしていたりと日本との違いも感じられます。
一方で仕事と生活のバランスもとっており、経済的には貧しいのかもしれませんが、それが生活上の不幸につながっているわけではなさそうでした。
ラオスの人々は国が開かれるまで、自分達が貧しいとは思っていなかったと言われています。
今はだんだんと観光業を中心に、たくさん儲けようと言う気持ちが芽生えつつあるのを感じます。中国資本らしい、巨大なホテルやショッピングセンターも建設されはじめ、ラオスも経済成長しつつあります。
人を羨む気持ちが、静かで穏やかな生活を、少しづつ変えつつあるのが今のラオスでしょう。
行ってみて良かったと、心から思える国でした。ただ、私が見たのは、首都ビエンチャンと世界遺産で潤う観光の町ルアンパバーンだけ、もっと長い時間をとって小さな町にも行ってみたいと思う気持ちがあります。そこには、また別の顔を見せてくれるのかもしれません。
【和歌山】古代和歌浦の小島で、現在も唯一、島として残る、妹背山へ。
古代、和歌浦は海辺にぽつりぽつりと小さな島が浮かんでいる風景と天然の砂州がおりなす美しさが、熊野詣での道すがら、訪れた都の人々を魅了したと言われています。
砂がたまったり、埋め立てがされたことで、ほとんどの島はいまでは陸地となってしまいました。
しかし、妹背山だけは、陸に近くなってしまったとはいえ、今でも海に浮かぶ小島として残っています。
石造りが見事な三段橋
江戸時代より続く、三断橋という青石で造られた橋が島と陸地をつないでいます。石造りの美しい橋ですね。
紀州藩の石造り建築物の技術力には驚かされます。
遠く、中国杭州の西湖の六橋をモデルとして建設されたと伝えられています。
下の写真が杭州の六橋です。左に見える長い緑色の陸橋が六橋です。2キロ以上あり、歩くとヘトヘトになりました。(遊園地の中を走るような小さなバスが、陸橋を走っているほどです。)巨大な長さで比べ物になりません(笑)
ただし石積みの丁寧さは、本場に劣らない見事なものです。
紀三井寺を眺めるために作られた海上楼閣
妹背山の橋と反対側にあるのが、観海閣。もともとは、紀州徳川家の初代藩主「徳川頼宣」が1600年代に木造の水上楼閣として建設しましたが、場所がら台風で何度も損壊し、そのたびに再建されてきました。
現在のものは、昭和36年に第二室戸台風で損壊したものを、コンクリート造りで立て直したものです。楼閣からは、片男波の砂州を一望することができます。
海観閣のすぐ前にある、亀石。亀の格好に見えますかね?
潮の満ち引きでかなり印象が変わって見える島です。ゴミが流れ着いてしまっているのが、残念です。
妹背山を境内とした海禅院
観海閣のすぐ裏手に山を登った中腹にたつ多宝塔。江戸時代にの妹背山には紀州徳川家によって建てられた海禅院というお寺がありました。
しかし、廃藩置県で明治政府へと政権が移り変わると、保護するものいなくなり、荒廃して多宝塔以外は失われてしまいました。(妹背山護持顕彰会が寄付金を集めて、経王堂という小さなお堂が、平成にはいってから、再建されています。)
江戸時代からそのままの形で残る多宝塔。多宝塔も小さいながら、長い歴史を残ってきた風格を持っています。また、土台や柵などの石造り建築も見事です。
あしべ屋別荘
大正11年には当時の皇太子(後の昭和天皇)も宿泊するなど、和歌浦でもっとも格の高い旅館として営業してきた「あしべ屋」です。しかし、大正14年に経営不振から、あしべ屋は廃業してしまいます。以降、本店は望海楼の別館となり、妹背山の別館は別の個人に譲られました。その後、本館は望海楼ともども、廃業(新和歌浦への移転が契機とも)とともに、取り壊されてしまいますが、別館は現在に至るまで、建物が残されることになりました。
今でも手入れが行き届いている美しい建物です。塩害も強い、離れ小島に建物を保存していくことの努力は相当なものでしょう。
一時は住居として利用されていたそうですが、建物の保存に理解のある方が住んでいたそうで、旅館として利用されていたことは建物のつくりで容易に判別できます。
文化財として指定されたことを契機に、住居としての利用をやめ、今では、貸会議室のような利用をされているようです。
こんなところで手の届いたもてなしを受けながら、宿泊したらどんなに気持ちが良かったことでしょう。多くの賓客たちに愛されたのもうなずけます。
関連情報
すぐ隣にある鹽竈神社の記事です。旅館「あしべ屋」の本館跡についても。
こちらもすぐそばにある玉津島神社と奠供山に関する記事です。文中に出てきた望海楼がエレベーターの経営もとです。