「旅」のことのはぐさ

タイトルの「ことのはぐさ(言の葉ぐさ)」とは話題のことです。旅の話題を幅広く掲載したいと思っています♪

【和歌山】古代和歌浦の小島で、現在も唯一、島として残る、妹背山へ。

古代、和歌浦は海辺にぽつりぽつりと小さな島が浮かんでいる風景と天然の砂州がおりなす美しさが、熊野詣での道すがら、訪れた都の人々を魅了したと言われています。

砂がたまったり、埋め立てがされたことで、ほとんどの島はいまでは陸地となってしまいました。

しかし、妹背山だけは、陸に近くなってしまったとはいえ、今でも海に浮かぶ小島として残っています。

石造りが見事な三段橋 

江戸時代より続く、三断橋という青石で造られた橋が島と陸地をつないでいます。石造りの美しい橋ですね。

紀州藩の石造り建築物の技術力には驚かされます。

遠く、中国杭州の西湖の六橋をモデルとして建設されたと伝えられています。

下の写真が杭州の六橋です。左に見える長い緑色の陸橋が六橋です。2キロ以上あり、歩くとヘトヘトになりました。(遊園地の中を走るような小さなバスが、陸橋を走っているほどです。)巨大な長さで比べ物になりません(笑)

ただし石積みの丁寧さは、本場に劣らない見事なものです。

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紀三井寺を眺めるために作られた海上楼閣

妹背山の橋と反対側にあるのが、観海閣。もともとは、紀州徳川家の初代藩主「徳川頼宣」が1600年代に木造の水上楼閣として建設しましたが、場所がら台風で何度も損壊し、そのたびに再建されてきました。

現在のものは、昭和36年第二室戸台風で損壊したものを、コンクリート造りで立て直したものです。楼閣からは、片男波砂州を一望することができます。

海観閣のすぐ前にある、亀石。亀の格好に見えますかね?

潮の満ち引きでかなり印象が変わって見える島です。ゴミが流れ着いてしまっているのが、残念です。

妹背山を境内とした海禅院

観海閣のすぐ裏手に山を登った中腹にたつ多宝塔。江戸時代にの妹背山には紀州徳川家によって建てられた海禅院というお寺がありました。

しかし、廃藩置県で明治政府へと政権が移り変わると、保護するものいなくなり、荒廃して多宝塔以外は失われてしまいました。(妹背山護持顕彰会が寄付金を集めて、経王堂という小さなお堂が、平成にはいってから、再建されています。)


江戸時代からそのままの形で残る多宝塔。多宝塔も小さいながら、長い歴史を残ってきた風格を持っています。また、土台や柵などの石造り建築も見事です。

あしべ屋別荘 

大正11年には当時の皇太子(後の昭和天皇)も宿泊するなど、和歌浦でもっとも格の高い旅館として営業してきた「あしべ屋」です。しかし、大正14年に経営不振から、あしべ屋は廃業してしまいます。以降、本店は望海楼の別館となり、妹背山の別館は別の個人に譲られました。その後、本館は望海楼ともども、廃業(新和歌浦への移転が契機とも)とともに、取り壊されてしまいますが、別館は現在に至るまで、建物が残されることになりました。

今でも手入れが行き届いている美しい建物です。塩害も強い、離れ小島に建物を保存していくことの努力は相当なものでしょう。

 一時は住居として利用されていたそうですが、建物の保存に理解のある方が住んでいたそうで、旅館として利用されていたことは建物のつくりで容易に判別できます。

文化財として指定されたことを契機に、住居としての利用をやめ、今では、貸会議室のような利用をされているようです。

こんなところで手の届いたもてなしを受けながら、宿泊したらどんなに気持ちが良かったことでしょう。多くの賓客たちに愛されたのもうなずけます。

関連情報

 すぐ隣にある鹽竈神社の記事です。旅館「あしべ屋」の本館跡についても。

hino0526.hatenablog.com

 こちらもすぐそばにある玉津島神社と奠供山に関する記事です。文中に出てきた望海楼がエレベーターの経営もとです。

hino0526.hatenablog.com

 

 

【和歌山】洞穴を御神体とする、和歌浦の塩竈神社

塩竈神社というとと、宮城県塩釜市塩竈神社が有名ですが、和歌山市和歌浦にもささやかな大きさながら、市民に愛される神社とて同名の神社があります。

和歌浦の小さな山の岩の崖にへばりつくように小さな社殿が外から見え、社殿のあたりだけ崖が凹んでるのが、見て取れます。

洞窟という物珍しさもあり、以前より目の前を通るたびに気にはなっていました。

現在では社殿が建てられていますが、明治時代までは無社殿の神社だったと思われ、古い古写真を見てみると、立派な鳥居はありますが、奥に社殿の姿は見て撮ることができません。

和歌山県立博物館所蔵「新和歌浦 名所絵はがき」より おそらく明治時代のもの。「米榮別荘」というのは、旅館の名前で、和歌浦では「あしべ屋」と並んで長い歴史を持つ旅館でした。

 

木製の柵や白い紙らしきものが、ちらりと見えますので、現在の「花の窟神社」のような形式だったと思われます。

現在でも無社殿の「花の窟」神社。熊野地方には、現在でも無社殿神社が残されています。

明治以降の国家神道として神社が整備されていく際に、自然信仰そのままの無社殿状態から、現在のような社殿を持つ神社に整備されました。(明治以前は、自然信仰そのままの全国に無社殿神社が数多くあったと言われています。しかし、近代国家として日本が生まれ変わるには相応しくないとされ、急速に数を減らし、現在では熊野地方にかろうじて残っている状況となっています。)

いざ、鹽竈神社の中へ

実際に中に入ってみると、外から見えた金属の建物は、落石などから保護するためのシェルターで、その下に本当の社殿があります。明治以降の社殿とはいえ、100年近い歴史があるので、風格が出てきています。

社殿内部に入るとくの字型に曲がっており、奥に崖があります。社殿の部分だけ細く崖が凹んでおり、通路のような社殿になっています。木に囲われているので、すぐに崖にへばりついているのかと思いましたが、それなりに奥行きがあります。

ご神体の洞窟は、それほど深さはなさそうですが、独特な雰囲気を持っています。自然信仰の対象となったというのは、もっともだなと感じされられます。

塩づくりの神様

祀られているのは、「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」安産と子授けの神さまとして有名ですが、古くは塩づくりの神さまとして祀られてきました。和歌川を挟んで、和歌浦の向かいに当たる、現在の和歌山県立大学病院付近は、紀州藩の塩田が広がっていましたので、塩田関係者から信仰を集めていたことでしょう。

塩田はその後、明治42年紀三井寺競馬場として競馬場になります。(近畿では、に番目に古い競馬場でした。和歌浦にとって貴重な観光資源となったことでしょう。)

その競馬場も昭和末期に閉鎖され、跡地が県立大学病院となっています。今でも病院の敷地がゆるやかなカーブを描いて楕円のようになっている場所があるのは、競馬場時代の名残です。

 

ここが参拝できるいちばん奥になります。木の枠の後ろにも洞窟が少し広がっています。

静かな雰囲気で、洞窟のひんやりとした空気が気持ちの良い場所です。自然の持つ、不思議なパワーをじっくりと味わうことができました。

小さい神社ですので10分もあればお参りできるでしょう。

料理旅館「あしべ屋」跡

神社のすぐ右手には、「あしべ屋」という旅館がありました。江戸時代には茶店としてつくられ、明治時代には和歌浦でもっとも格式の高い旅館として繁栄したと言われています。

夏目漱石ももともとは、「あしべ屋」に泊まるつもりでいたようですが、同行者の菊池総長という方が宿泊していたので、日本初の展望エレベーターのあった「望海楼」へ予定を変えて宿泊したと日記に書かれています。

案内の看板には、和歌山のほこる有名人「南方熊楠」と中国革命の父孫文」が明治34年に宿泊したと書かれています。

現在は、ただ草むした空き地が広がるだけで、柱の跡や、石につけられた階段の跡だけが当時をしのぶことができる状態となっています。

(続く)

次は、「あしべ屋」跡の向かいにある妹背山へ渡ってみます。こちらには、今でも「あしべ屋」の別邸が残っています。

関連情報

 元祖パワースポットとも言える無社殿神社として、現在もそのままの形で残る、花の窟神社。

 和歌浦新和歌浦の記事


 


 

【和歌山】日本初の展望屋外エレベーターのあった、和歌浦の奠供山(てんぐやま)へ行ってみました。

日本初の屋外展望エレベーターが建設されたのは、和歌山市だということをご存知ですか?

夏目漱石の小説「行人」では、大阪から和歌山へ家族で旅行に出かける様子が生き生きと描かれており、当時の様子をしのぶことができます。

(主人公はクールであまり興奮しない性格ですが、奠供山のエレベーターはまんざらでもなさそうで、少し興奮しながら物珍しがっています。漱石自身も、エレベーターに興奮したのではないでしょうか。)

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 この、エレベーターは望海楼という旅館が建設したもので、明治43年に建設されました。東洋一のエレベーター「明光台」として大々的に宣伝されたと言われています。

和歌浦は、明治から昭和初期にかけて景観保全に気を払っており、エレベーターの建設にあたっては、反対派と賛成派が激しく対立したと伝えられています。

和歌浦村の景観に関する熱意は、並々ならぬものがあり、同じく和歌浦を代表する史跡である観海閣が損壊した際には、景観上欠かすことができないとして、熱心な再建運動を展開しています。

(もともとは、紀州徳川家が設置したものですが廃藩置県のあと、管理者が不明となっていた観海閣を、村でお金を出してもいいので再建させて欲しいと訴えかけたものでした。)

後年に、南海遊園(後年、新和歌浦に出来た同名の遊園とは別物、計画のみで頓挫しています。)という水族館・遊園地を併設したテーマパークの建設や路面電車の延伸についても反対運動が起こっており、昔の和歌浦の人々は景観保全に、強い関心があったことをうかがわせます。 

反対運動もある中、強硬にエレベーターを建設して、開業します。できた当初は、大人気で京阪地区を中心に多くの人々が訪れたようですが、すぐに乗降客が減ってしまい経営的には、軌道に乗らなかったようです。

反対運動は建設後も続き、経営的にも上手くいかないということで、はやくも大正5年に、第一次世界大戦で鉄の値段が上がったことを幸いにスクラップにされてしまい、姿を消すこととなります。

旅館「望海楼」自体も、さらなる積極的な開発を目指して、当時開発が始まったばかりの新天地「新和歌浦」へ移転します。

実際に行ってみました

まずは、玉津島神社へ。小さい境内ですが、きれいに整備されています。

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徳川家の時代には、東照宮末社に位置付けられていましたが、歴史的には東照宮よりも、古い神社です。大昔は、名前の通り玉津島という海に浮かぶ島でその風景は玉が浮かぶような絶景で、その美しさは多くの和歌に歌われています。

もともとは、島自体が神様としてあがめられており、もともとは無社殿の神社だったようですが、江戸時代にはすでに社殿が建てらていたようです。

奠供山へは、鳥居をくぐって、社殿の右どなりを通って裏手にある登山道に向かいます。社殿の右手には、江戸時代の学者が奠供山の云われについて研究した結果を記した石碑が保存されています。

登山道は、手すりが整備されていますが、掃き清められていた境内とは違って、階段が落ち葉に埋もれており、訪れる人は限られている様子。

途中に右手に折れる道がありますが、こちらは神社の裏手へ下る道です。

まずはまっすぐ進みましょう。今度は左手に曲がる道があります。どちらに行っても同じ山頂に到着します。左手に曲がったほうが少しなだらかで、眺めも開けているのでおススメです。

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こうやって書くと、ずいぶん距離があるのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、神社から200メートル程度でしょうか、かわいい山登りです。料金を払ってエレベーターに乗るのが、物珍しい一時期だけだったというのもうなずけます。歩いても10分かからない程度です。

昭和50年ごろの資料では、エレベーターの基礎部分を今でも見ることができるとありますが、現地では見分けることができませんでした。夏に訪問したので、冬なら見つけることができるかもしれません。

山頂には、称徳天皇行幸した際に、望海楼(明治時代のエレベーターを作った旅館はここから名前をとったものですが、別物です。エレベーターのあったことでも記念したものかと現地に行くまで勘違いをしていました)が作られたという故事を記念して、江戸時代に作られた「望海楼遺址碑」があります。もともとは、塩濱神社の鳥居の右側に建てられていたのですが、明治天皇行幸の折に軍艦から見える位置にということで、山の上に移設されました。

頂上からの眺めは抜群。和歌浦片男波の砂浜を一望することができます。展望エレベーターがあった時とは、ずいぶんと風景は変わってしまったでしょうが、今でも美しい風景であることには変わりはありません。

新和歌浦方面の眺望。直下の和歌浦地区には、今でも高いビルがありません。景観保護の成果ですかね。

片男波方面の眺望。対岸下津の石油工場まで見渡すことができます。

裏手の登山道散策

さて、山頂を後にして下へ降りてみましょう。先ほど曲がらなかった、横道へそれてみます。神社からの登山道よりも簡易的で、手すりなどはありませんが、階段は比較的最近になってから整備された様子。

その理由は下まで降りて判明しました。津波の避難用になっているみたいです。おそらく東日本大震災以降に整備をしたのでしょう。この下にも小さなお稲荷さん(日ノ出大神)があります。裏手の登山道も新しく整備したわけではなく、古い道を再度手を入れたのでしょう。

民家の間を縫うように

 

細い路地が続いていきますが、途中に不思議なものを発見。巨大なコンクリートで固めた岸壁のようなものが奠供山にありました。

一瞬、エレベータの後かと思いましたがよく見てみると、反対側の山にもちょうど向かい合って同じ大きさのものがありますし、そもそもエレベーターの写真を見る限りでは、コンクリートの岸壁などありません。

橋がこんなところにあったのかなと疑いながらも現地では、確信がつかめませんでした。

後から調べると昭和8年に県が和歌公園整備の一環として設置したようです。残念ながら、間もなく、前後の道が草に埋もれてしまい、近所の子供たちの遊び場ぐらいしか役に立っていなかったようですが、存在感は大きく地元の人に親しまれていたようです。

その後老朽化し、コンクリートが剥がれ落ちて民家に落ちたりと危険もあったようで2010年についに撤去されてしまったとのことです。

(地元紙の紀伊民報のサイトに記事がありました。撤去前の写真も掲載されています。)

あと6年早ければ、陸橋の雄姿を見ることができたのに残念です。(><)

(終わり)

次は奠供山の隣にある、洞穴を神様として祭っている鹽竈神社和歌浦のシンボル、不老橋をご紹介します。

 

関連情報

行人 夏目漱石

夏目漱石の後期3部作と言われる作品です。嫂(あによめ)と仲良しなクールなお坊ちゃんが兄貴に睨まれて、苦悩する話です。

小説の前半で、大阪から列車にのり、和歌浦へと向かっていくシーンが細かく描写されています。電車の中の食堂車で食事をしたり、奠供山のエレベーターに乗ったりと、明治の和歌山観光を偲ぶことができます。

ストーリ全体も大好きです。漱石の得意とした、明治知識人の苦悩がテーマとなっています。

行人 (新潮文庫)

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